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2011年5月30日

まんまる野菜、被災地へ

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まる妻です。

震災後、被災地の方々のために
私たちには何ができるか、ずっと考えていました。

被害が大きかった東北の3県と比べれば
ずっと被害は少なく恵まれてはいますが、ここ真岡も被災地であり、
私たちも皆さんからご心配やお見舞いの言葉を
かけていただくような立場になってしまったこともあって、
募金とは違う方法でお役に立てればと思っていました。

そして、やっとその機会をいただきました。

普段は海外で支援活動をしている日本のNPOも、
並行して被災地の支援を行っている団体が多いようです。

主人と私が若い頃にボランティアとして関わっていたNPOも、
被災地の支援をするとのこと。
その事業の一環として、まんまる農園の野菜を被災地へ送りたい、
とお声をかけていただいたのでした。

畑に多めにあるのは玉ねぎとレタス。

お送りする先は南三陸町の小学校ですが、
レタスのように日持ちのしないものを大量に送って大丈夫かを
お伺いしたく、担当の教頭先生にお電話しました。

私たちは、小学校が避難所になっていて、
避難生活をされている方の食事に使っていただけるのかと考えていましたが、
先生が話してくださった被災地の現状は、かなり深刻なものでした。

現在、日用品などはかなり充実してきたが、
野菜が不足しており、震災後の給食はパンと牛乳だけ。

各家庭にも野菜は行き渡っていないので、
届いた野菜は給食に使うほか、余れば児童に持ち帰ってもらうので、
日持ちなどの心配は要らない、とのこと。

なんで野菜が届いていないのだろう、
国内の別の場所では、食べ物が余っているはずなのに。
そしてそういう情報が、なぜもっと発信されないんだろう。

とにかく、玉ねぎ86kg、レタス202個が南三陸町へと旅立っていきました。

今回はNPOより野菜の代金をいただいての発送なので、
ある意味私たちも「支援」していただいたのですが、
間接的にでもお役に立てて、嬉しく思います。

今後も可能な限り野菜をお届けしたいと思っています。

・・・ちなみに200個ものレタスが畑にあったわけですが、
このようなお話をいただかなかったらどうするつもりだったのか、
作付け量を決めている主人にたずねてみると、
「なんとかなると思っていた」との返事。

まぁ、今回もこれまでも、実際なんとかなってきたのでいいのですが、
それがいつまで続くことやら。。

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2011年5月 6日

私たちの責任

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まる妻です。

今日は子どもの日。
でも今年は、鯉のぼりも例年より少なめ。
皆さん自粛しているようです。

我が家は息子の初節句なので、両親からのぼり旗の贈り物。
栃木に来てから初めて見ましたが、
こちらは鯉のぼりのほか、写真のようなのぼり旗に
家紋や男の子の名前を入れて飾ります。

かっこいいので、私も男の子が生まれたら絶対にやりたい!
と思っていたのですが、念願がかないました~

地震、原発事故と続き、畑への影響も先が見えず不安でいっぱいの時も、
子どもたちの無邪気さがそれを忘れさせてくれました。

私たちは、子どもたちのために何ができるでしょうか。

先日、知り合いの女性とお話ししたときのこと。
その方には3人お子さんがいて、
3番目のお子さんは、チェルノブイリの原発事故の年に生まれたそうです。

当時、日本国内でも原発の反対運動が各地で起こり、
その方も、絶対に原発をとめさせようと運動したそうです。
でも、とまりませんでした。

「あの時に私たちがとめられていたら」。
目にうっすらと涙を浮かべて話してくださったのが、頭から離れません。

当時だって、「日本まで放射性物質が飛んできた」、
「牛乳から放射性物質が検出された」と連日報道され、
みんな原発の恐ろしさを思い知ったはずなのです。

もう本当にこれで終わりにしなければなりません。

都内ではかなり大きなデモが行われているようですね。
でもほとんど報道されません。
そういうことをよく思わない人たちがいるんでしょう。

25年前もそうだったように、簡単なことではないんだと思います。
いつか「そのとき」が来るまで、
あきらめずに気持ちを持ち続けましょう。

アプローチの仕方もいろいろあっていいと思います。
最近の愛読書です。
我慢する節電ではなく、毎日の暮らしがちょっと豊かに、愉しくなる非電化。
これも立派な反原発運動だと思います。

Photo_3 愉しい非電化 藤村靖之・著

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